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基準化と近代化主義、

    どうもこんにちは、



  今日は雨がひどいですね、最近は真夏のように暑い日がまだあるので、そのあたりのせいですごい雨が降っているのでしょうけど、どうも未知の気候にだんだんとなってきているように感じます、


  それで最近は何かありましたかね、、マスコミのネガキャンは昔からそうだし、特に疑問はないのだけど、どうせ人の悪口しか言いませんからねあいつらは、

  ただまあ何だか、鳩山氏の資金とか資産のことをあれこれ言っているようなので、ちょっと書いてみますか、


  鳩山氏の事ね、確か六幸商会から鳩山氏に対して政治資金が流れていて、それが個人献金になっていてその個人献金に問題があるという話らしい、

  ただし、その資金源は六幸商会内部の鳩山氏の個人口座から出たもので、今とのところ本人以外からの入金というのは確認できてはいないようだ、


  だから金をもらっただけだと違法性はまったくなく、自分の個人口座から移しただけだから、それを問題視する人はいないだろう、

  問題があるとすればその移し方であり、鳩山氏の秘書が勝手に亡くなっている方の名前を使ったりして、個人献金として送金をしていた事が問題になっている、


  この場合問題になるのは、道義的責任というのは確かしにあるでしょう、特に秘書の方の責任は十分にある、

  しかし鳩山氏のほうはどうであるかというと、確かに責任はあるだろうが、そんなことまで想像するのは難しいだろうから、直接的に責任を負うほどではないのではないだろうか、


  この行為を法的に見るとどうなるかというと、政治資金規正法は記載をしっかりする必要はあるが、あくまでこの法律は抑止力というか、問題のあぶり出しのための法律なので、これ自体では処罰はできない、
 
  あるとすれば利益供与等が必要になるが、マネーロンダリング的な形は持っているが、鳩山氏自身が自分の口座からの出勤であることを確認しつつ、金を出し入れしていたのだからその手のものではないだろう、


  後は贈与税を避けるためのものというのも、元々六幸商会の中の鳩山氏用の口座からの出金であるので、それ以外から出ているのはまだ見つかってはいないから、そうなるとこれは脱税という意味もないでしょう、


  つまり問題があるとすれば、勝手に名義を使ったことですが、これは秘書の自己責任になってしまうから、どうなんだろうね、

  秘書が悪いというのは責任逃れとか言われるけど、

  けどそういうのは、秘書に何かを意図的にやらせて自分は直接関わらないようにして、それをトカゲの尻尾きりのように切り捨てるというのは、確かに責任逃れだと思うが、

  今回の場合は明らかに秘書だけが悪く、鳩山氏は資産家でしかもその財源は本人が確認をしたものであるので、そんなややこしいことをする必要はないのだから、これは秘書だけが悪いのでしょうね、


  ただ今までの自民党が、トカゲの尻尾きりとして秘書を使ってきた歴史があるので、そのあたりと合わさって見えてしまっているのが今回の問題の本質のようには見えますね、



  もう一つが、なんだか急に言われだした鳩山氏の資産公開で、ちゃんと公開していなかったという問題、

  3億とか5億とか言われているが、う?んまちまちですね、案外てきとうに言っているのかもしれないけど、

  まあただそれだけの資産を政治家として公開していなかったというのを毎日が騒いでいるね、


  これはネガャキャンだろうけどね、少し前に朝日が言っていたから輪作的に、次は別のところが叩いて公平に言っているように見せようという手なのだろうけど、



  ただし確かに、そういう資産の公開がはっきりしていなかったのは事実のようです、

  後はこれが問題になるかですが、個人的にいうとどうかなという気がしますね、

  なぜかというと、そもそも政治家の資産は個人資産であり、企業のような厳密な会計を義務付けられる性質のものではない、


  だからそれを義務付けるならば、それなりの対処と理由が必要であるがその点があいまいである、

  例えばそういう資産の公開義務はあるが、あくまで自己申請であり、しっかりした制度とはいえないこと、

  もう一つが、個人の資産は財産権で保護されているので、それに対して政治家であるからといって介入することは、財産権の侵害になってしまうということ、


  であるからこの場合も政治資金規正法と同じく、国民に対する不利益というものが必要であり、記載ミスだけだと問題としてはいえない、

  もしそれが問題だとするならば、今までだって記載されてなかったわけだから、記載されてなかったことがチェックできていなかったわけで、

  そうなると、日本の政治家のほぼ全員が記載の問題をチェックされてないことになるから、じゃあその程度の制度で厳密なチェックを急に要求するのはフェアではない、というのもあるのではないだろうか、



  例えば企業会計は厳密であるから、それを厳密に要求されても問題にはならない、

  しかし政治家の資産の問題は、厳密に日ごろやっていないわけだから、それを急に厳密に言い出すのはおかしいのではないだろうか、もしそういいたければ国会議員全員を厳しくチェックする方法に変えてから言うべきであり、そういう不意打ちのような形は良くないだろう、


  それに政治家の資産は個人の資産であるので、企業のような公的な資産ではないのだから、社会的な強制力をかけていくことがただいいのかどうか、政治家の資産を厳密に査定しなければならないというのならば、それだけの理由が必要であるし、またそれができるだけの制度もいるはずだ、


  つまりこの話は政治家の資産公開を厳密にすべき、という根本的な概念から始まっている話であり、それは企業的な意味と同じようなレベルの資産公開をすべきと指摘しているわけだから、それならばそれだけのことをする理由と、制度が必要であるのにそういう指摘はないんだよね、


  そもそも政治家の資産を公開するのも、政治資金規正法も、あくまでそれが政治家の立場を使った不正に対する抑止、もしくは情報のあぶり出しのようなことを考えているだけで、この制度やシステム自体には殆ど意味はない、


  だがもしそれを重要視して話を進めたいというのならば、その理由を言い手段と考えるべきであり、それを言わないのならばこの議論はすべて言いがかりであり、嫌がらせに過ぎないと結論付けられてしまうだろう、

  個人的には政治家の資産の公開等を厳密にする必要性もあるのではないかとは思うのだが、それをするのならば政治家が資産を公開するデメリットも考え、資産管理を公的に行い、その損失分を補填し、公開した分の社会的被害というものも長期にわたって保障し続けなければならない、


  マスコミの言っていることはこういうことなんだけどね、情報公開や会計を厳密にしろというのならば、それをするだけの保障と保護をしろというのも一方ではあるわけで、マスコミの言っていることが一方的な言いがかりでしかないというのが、こういう点でもはっきり見えているのではないかと思います、



    


  さて、それはいいとして今日は、基準化と近代化主義、ということでも書いてみようかと、

  なんだか難解なタイトルですが、思いついた以上は書かねばなりませんので、何とか書いてみようとは思っていますけど、


  それで基準化と近代化主義ということで、日本てなんといいますか、社会主義とか全体主義とか言われていましたよね、

  それはある程度は、確かにそうだと思えるところも多く、学閥とか派閥とかそういうことばかりをしていて、非常に硬直していた頃がありました、


  最近は変わってきてはいるようですけど、私はそういうことが、ある種の基準化のようなものではないかと思うのです、

  人の存在を基準に合わせるようにして、その基準の操作や変化が社会であるという考え方、そういうのが少し前にありましたが、


  しかしそんな硬直したものでは、うまく行きませんから失敗したのですけど、


  ただそういう基準化のようなもの、昔から基準を作ってというものはよくありましたが、近代的な社会における基準化、これはちょっと今までの時代のものとは違ってくるのではないかと思います、


  近代というのは結局科学化ですから、例えば数値的に物事を表すとか、物事のよしあしも数値であり、そこに絶対性があるという考えを含ませることが多い、


  日本だとなんだろうな、例えば大学とかの偏差値はそうだろね、

  冷静に考えれば分かるけど、偏差値に価値があるかどうかなんて、誰も知らないわけじゃないですか、偏差値が科学的数値であるので、物事のよしあしを数値で表し、そこに絶対性があるという考えを含ませている、


  近代における人の基準、中世であっても基準はあったが、その基準は文化社会的なものから生まれたものであり、合理的というよりは人間的な発想からうまれていたものが多かった、


  しかし近代における基準となると、どうしても科学的な数値論、そして学術的な絶対論を基にして、人の存在を否定するレベルまで、基準が厳格化してしまうところがある、


  戦後にしても結局は、あまりに厳格な基準で崩壊したようなものだが、その原因がやはり近代的な基準、人間ではない絶対的な升目に人々を当てはめてしまうという問題、そういうことが起きていたのではないだろうか、

  近代における基準、もしくは基準化を行うということは、人間の否定というものが根底にあるので、どうも私にはそれだけでうまく行くようには思えない、


  フラスコやビーカーの中に人間がいるわけではないのだから、理論的に生み出せる話が、それがどんなに正しくて合理的であっても、人間を否定しているという時点でその理論も破綻しているわけです、


  近代の基準社会というものは、人間を否定するような基準を作って、そのメカニズムを基礎としますから、

  だから今のような世の中では、基準を作ったり、基準を組み合わせて社会構成をしようとしても、その大半はうまく行かないでしょう、


  合理的基準で社会を作ると、それは人間を否定してしまうから、これが逆に人からも否定され、

  日本でいえば一時の非常に強い基準社会が、人から否定されて消滅してしまったのはそのせいだろう、


  社会の基準というものはあるべきかもしれない、しかし今のような世の中ではその基準がどのような意味を持つかということは、よく考えた方がいいだろう、


  特に今のような世の中だと、人間がこうであるという基準が、そのまま人間の存在の否定につながるので、軽々しく基準を決めることが出来ない、


  合理的で正しい基準であるからこそ、人間には価値がないという、不思議な矛盾ですが、そういうところもあると思うので、今のような世の中では、安易に基準的に見るのではなく、基準以外のものさしというものも、どこかに必要なのではないかと思います、





    それでは、今は週一回ですので次回は来週の水曜日になります、では次回まで、







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