集団的自我という問題、と、変化という思考法、
どうもこんにちは
そういえば北京オリンピックが開かれていますね、テレビは騒いでいるようですが、私はテレビはあまり見ないのでよくわかりません、
聞いた話では水泳の北島選手が、二冠を取れるかどうかと騒いでいるようですが、う?ん、あまりぱっとしてはいないようですね、
テレビの視聴率も悪いようで、柔道の谷亮子さんの試合でも視聴率は13%くらいだったらしいし、これではほとんどマイナー番組ですね、
それにテロみたいなものが乱発しているし、ずいぶん奇妙なオリンピックのようです。
よく言われるように北京オリンピックとは、時代の節目に当たる儀式のようなもので、アメリカ一極的な世界観の終わりから、新しい時代がどうなるかという、変換点に当たる祭典になっているのですが、
その結果表れたのがテロや戦争で、やはり時代転換というものには抗争がつきものなのでしょう。
多分一番大きいのが、アメリカやユダヤ(イスラエル)の反発だろうかな、グルジアの戦争は、実際はイスラエルやアメリカとロシアの戦いらしいが、北京オリンピックにぶつけてくるのは、北京オリンピックを潰そうという考えがあるのかもしれない、
中国のテロも、イスラム教というのはアメリカと関係が強いので、そもそもテロリストのイスラム教徒という概念は、ソ連のアフガン侵攻時にアメリカが作ったものですから、同じ手口をやっている可能性もある、
中国で起きているテロは手馴れているように思えるし、訓練や教育をしなければすぐにはできなそうなものが多い、となれば当然裏がいるだろうし、そうなるとアメリカ、ユダヤ資本になるかな、
グルジアの戦争も、グルジアの大統領の動きに計画性を感じるし、EUからアメリカの手先であるフランスの大統領が来るのも胡散臭い、
北京オリンピックは、世界の主権をアメリカから中国へ一部移す儀式であるから、それに反発する勢力は、北京オリンピックのイメージダウンを狙うだろう、儀式を妨害しようとね、
今考えてみると、ここ数年の日本におけるアメリカ飼犬政権も、やたら中国をたたいていたね、日本にとって中国が問題ではないとは言わないが、アメリカの指示で叩いていたというところに、今の北京オリンピック時に起きている騒動と似た感じを受けます。
北京オリンピックは、時代の幕が上がったという現象のようなもので、その先には不明瞭な世界が広がってはいますが、逆に言えばここでの判断が大きな分岐を生むということにもなります。
しかし自民党はどうやら中国の飼犬になって、国民や国を中国に喰わせて自らの延命を図る、どうもそんな意図が強いように感じるので、気を付けた方がよさそうです、
そういえば最近目立ってきた斉木とか言う、アジア局長の人は気味が悪いね、内閣より権限のある局長ってなんだろうか?、もしかすると自民党は日本をもう中国に売却済みで、作業を自民党にやらせて、その管理をアメリカがその局長にやらせるとかそんな感じなのか?、
う?ん、まあよくわからないけど、これからは自民党は日本を中国に売ろうとするだろう、それが金になる以上必ずすると見ていい、
後はその動きかな、日本をアメリカに売るか中国に売るか、それが変わるだけだろうな自民党の政治は、基本的にそういうことしか考えていない連中だからね。
さて、それはいいとして今日はやたらと長い二本立てですが、まずは、集団的自我という問題、ということでも書いてみようかと、 何か難しいタイトルですが、内容はそうでもなくて、集団に現れる意思というものは、個人に現れるものとは性質が違い、独特の癖があるものです。
でまあ、そのうちの集団に現れる自我のようなもの、について考えてみたので書いてみると、
それで集団的自我の問題ということで、このことを考えたのは、最近は下火になってきていますが、少し前まではすごいプロパガンダで、人を騙すことばかりの世の中でしたけど、そういう世の中を見ていて思ったのが、妙に感情論が多いなという感じを受けました、
人を扇動しよというのだから感情論を使うのは分るけど、では何故感情論なのかなと考えたときに、集団における感情、いわば自我のようなものは、非常に危険なものなのだなと気づきました。
例えば全体が何かを思ったとき、それを否定することは非常に難しい、マスコミの問題っていつもこのあたりをよく言われますが、全体が感情的に特定の方向を向いたときには、それを個人的に否定することが殆どできず、またそれがあっているか否かということを言う事もできない。
これがもし集団における判断論だったらば、これは百家争鳴的な、それぞれがそれぞれの論をいってまとまりのない話になるが、集団的自我、集団の感情論では、おのおの意見を封殺するという意味を持つ。
何故ここ数年の政府は、やたらと感情論を煽ろうとしていたのか?、それはとにもかくにも、言論の封殺が目的だったと見ていいのではないだろうか、集団的自我、集約的統一精神状態とでもいうか、全体の意見を一致させるのではなく、全体の意識を一致させて、意見を封じ込めようとしていたように思える。
アメリカもそうですよね、愛国心だ何だといって、実質言論弾圧のようなことをしていたわけだから、全体の意識を統一させる集団的自我のようなものを発生させることが、独裁権力を持つための基本的手法論なのかもしれない。
いわれてみれば、新自由主義にしてもようは感情論でしかなく、私の知る限り合理的説明をしている人をみたことはない、多くががんばった人が報われる制度とか、努力をしない人を助ける必要があるのかとか、そういうことしか言わない、ただの感情論でしかなんだよな、新自由主義も。
私がこの数年感じていた違和感は、合理的な論を感情的に言うのは何故だ?、という話で、改革はいいかもしれないが、なぜぞれを絶叫する必要があるのか?、新自由主義が正しいというのならば、何故それを論じずに、努力が足らないとか怠けているからとか、そういう感情論でしか新自由主義を語らないのか?、それが疑問だったのですが。
今考えてみると、結局のところ独裁のために全部うそをついていた、そういう話なんじゃないかと思うんですよ、新自由主義も改革というものとも全然関係ないことをしていたんじゃないか、そう思えるんです。
最初のほうで書いた、集団的自我を生むために、言論の封殺し、そして合理的判断の規制のために、改革と新自由主義という嘘を持ち出したのではないか、そんな気がするんです。
だから昔も書いたのだけど、何で改革と新自由主義と軍事独裁が一緒に行われているのか?、変ですよね、
それはつまり、集団的自我を発芽させようとするために、どんな手が使えるかと考えて、適当に選んだんじゃないか、そんな気がするんです。
つまり感情的に煽りやすい手で、利権や権力増強になりそうなものを意味もなく選んで、でたらめに政治をしていただけなんじゃないかって、どうもそんな気がするんです。
まあ、なにかまとまりのない話ですが、集団的自我と言うもの、昔も書いたような気もするのですが、集団というものは感情論、情緒論で統一してしまえば、実質言論の封殺と、合理的判断に対する規制を行えるということ、
であるから情緒論や感情論を、集団において肯定してしまえば、それは奴属的に集団に属するということになり、独裁を肯定することにもなる、
日本は情緒的に生きてきたといわれるが、それを良しとしても、それは恒常的に独裁を認めるという意味も持つ。 情念による世界構築は、力の分散ができないので、ある程度力が強くなってきたら、部分的に捨てる必要があるのだろう、
例えば権力者に対しては、情念的な世界論を認めないとか、まあそういうことをして、集団における自我のようなものが発芽しないようにして、社会の安定化を図るべきではないかと思います。
さて、それでは次に、変化という思考法、ということでも書いてみようかと、上の話の続きのような続きでないような話なのですけど、上の話では集団における感情論が、結果として言論の封殺や、合理的判断を不可能にする意味を持つ、ということを書いたのですが、
では集団における感情論が成立しないのならば、集団というものをどう考えていけばいいのか、まあそんなことを考えたので書いてみると、
それで変化という思考法ということで、この言葉を思いついたのは、西洋では議論というものを重視して、言い合いのようなもの、人の意見を聞くということを重要視しますが、それは何でなんだろうと考えていたときに、社会変化というものがよくあったので、そうなったんじゃないかなと思ったのです、
今の日本もそうですけど、あまりに社会変化が起きてしまうと、実質意見の統一は無理ですよね、考え方があまりに違いすぎてしまうから、みんな同じように考えるということはできるようでできない。
そういう意味で言えば、ヨーロッパとかはかなり昔から、社会変化があって人と人の意見が合わない、ということがよくあったと思うのです、
もしくは交易等で地続きですから、色々な人が来て話し合ったときに、だいたい意見は合わないですよね、違うところから来たわけだから、
だからヨーロッパでは意見が合わないのが普通で、その合わないというところの加減で付き合いをしていたのではないかな、と思うのです。
向こうで言う言論の自由というのは、違う意見が常にあるという、そういう社会を反映した考え方であり、違う意見を尊重するという意味があると思うのですね、
そして、違う意見を認めるという意識が、変化というものに対する対応力を生み、それが西洋の成功の要因になったのではないかと、
変化というものは違うという意味ですから、変化というものを含んだ思考法は、違うというものを認めた考え方でないといけない、
これからの日本、そして今の日本もこの違うという事と、これからかなり付き合うことになるんではないか、
だから、変化という思考法、昔も書いたような気がするのですが、空間や時間によって物事が分離しているということ、それを含めた上で物事を考えてみる、
そこで必要になるのは、意見のよしあしはあるけど、意見自体は何であれ認めるということ、
個人的なことならば別に認めなくてもいいだろうけど、社会的なものに対しては、やはり西洋のように、議論をして意見をできる限り表すしかないのではないかな、
日本人は情緒で、なあなあでやるけど、ちょっとそれでは無理なところに今いるのではないかなと思ったので、書いたみたのですが、
それではそろそろ戻してもいいのですが、まあしばらくはこのままで、国会でも始まったら戻そうかと思っているのですけど、いつになるのかな??、とにかく政府が引き伸ばしをしている以上、こっちものんびりやるしかないので、、次回も週一回で、来週の水曜日になります、では次回まで。
そういえば北京オリンピックが開かれていますね、テレビは騒いでいるようですが、私はテレビはあまり見ないのでよくわかりません、
聞いた話では水泳の北島選手が、二冠を取れるかどうかと騒いでいるようですが、う?ん、あまりぱっとしてはいないようですね、
テレビの視聴率も悪いようで、柔道の谷亮子さんの試合でも視聴率は13%くらいだったらしいし、これではほとんどマイナー番組ですね、
それにテロみたいなものが乱発しているし、ずいぶん奇妙なオリンピックのようです。
よく言われるように北京オリンピックとは、時代の節目に当たる儀式のようなもので、アメリカ一極的な世界観の終わりから、新しい時代がどうなるかという、変換点に当たる祭典になっているのですが、
その結果表れたのがテロや戦争で、やはり時代転換というものには抗争がつきものなのでしょう。
多分一番大きいのが、アメリカやユダヤ(イスラエル)の反発だろうかな、グルジアの戦争は、実際はイスラエルやアメリカとロシアの戦いらしいが、北京オリンピックにぶつけてくるのは、北京オリンピックを潰そうという考えがあるのかもしれない、
中国のテロも、イスラム教というのはアメリカと関係が強いので、そもそもテロリストのイスラム教徒という概念は、ソ連のアフガン侵攻時にアメリカが作ったものですから、同じ手口をやっている可能性もある、
中国で起きているテロは手馴れているように思えるし、訓練や教育をしなければすぐにはできなそうなものが多い、となれば当然裏がいるだろうし、そうなるとアメリカ、ユダヤ資本になるかな、
グルジアの戦争も、グルジアの大統領の動きに計画性を感じるし、EUからアメリカの手先であるフランスの大統領が来るのも胡散臭い、
北京オリンピックは、世界の主権をアメリカから中国へ一部移す儀式であるから、それに反発する勢力は、北京オリンピックのイメージダウンを狙うだろう、儀式を妨害しようとね、
今考えてみると、ここ数年の日本におけるアメリカ飼犬政権も、やたら中国をたたいていたね、日本にとって中国が問題ではないとは言わないが、アメリカの指示で叩いていたというところに、今の北京オリンピック時に起きている騒動と似た感じを受けます。
北京オリンピックは、時代の幕が上がったという現象のようなもので、その先には不明瞭な世界が広がってはいますが、逆に言えばここでの判断が大きな分岐を生むということにもなります。
しかし自民党はどうやら中国の飼犬になって、国民や国を中国に喰わせて自らの延命を図る、どうもそんな意図が強いように感じるので、気を付けた方がよさそうです、
そういえば最近目立ってきた斉木とか言う、アジア局長の人は気味が悪いね、内閣より権限のある局長ってなんだろうか?、もしかすると自民党は日本をもう中国に売却済みで、作業を自民党にやらせて、その管理をアメリカがその局長にやらせるとかそんな感じなのか?、
う?ん、まあよくわからないけど、これからは自民党は日本を中国に売ろうとするだろう、それが金になる以上必ずすると見ていい、
後はその動きかな、日本をアメリカに売るか中国に売るか、それが変わるだけだろうな自民党の政治は、基本的にそういうことしか考えていない連中だからね。
さて、それはいいとして今日はやたらと長い二本立てですが、まずは、集団的自我という問題、ということでも書いてみようかと、 何か難しいタイトルですが、内容はそうでもなくて、集団に現れる意思というものは、個人に現れるものとは性質が違い、独特の癖があるものです。
でまあ、そのうちの集団に現れる自我のようなもの、について考えてみたので書いてみると、
それで集団的自我の問題ということで、このことを考えたのは、最近は下火になってきていますが、少し前まではすごいプロパガンダで、人を騙すことばかりの世の中でしたけど、そういう世の中を見ていて思ったのが、妙に感情論が多いなという感じを受けました、
人を扇動しよというのだから感情論を使うのは分るけど、では何故感情論なのかなと考えたときに、集団における感情、いわば自我のようなものは、非常に危険なものなのだなと気づきました。
例えば全体が何かを思ったとき、それを否定することは非常に難しい、マスコミの問題っていつもこのあたりをよく言われますが、全体が感情的に特定の方向を向いたときには、それを個人的に否定することが殆どできず、またそれがあっているか否かということを言う事もできない。
これがもし集団における判断論だったらば、これは百家争鳴的な、それぞれがそれぞれの論をいってまとまりのない話になるが、集団的自我、集団の感情論では、おのおの意見を封殺するという意味を持つ。
何故ここ数年の政府は、やたらと感情論を煽ろうとしていたのか?、それはとにもかくにも、言論の封殺が目的だったと見ていいのではないだろうか、集団的自我、集約的統一精神状態とでもいうか、全体の意見を一致させるのではなく、全体の意識を一致させて、意見を封じ込めようとしていたように思える。
アメリカもそうですよね、愛国心だ何だといって、実質言論弾圧のようなことをしていたわけだから、全体の意識を統一させる集団的自我のようなものを発生させることが、独裁権力を持つための基本的手法論なのかもしれない。
いわれてみれば、新自由主義にしてもようは感情論でしかなく、私の知る限り合理的説明をしている人をみたことはない、多くががんばった人が報われる制度とか、努力をしない人を助ける必要があるのかとか、そういうことしか言わない、ただの感情論でしかなんだよな、新自由主義も。
私がこの数年感じていた違和感は、合理的な論を感情的に言うのは何故だ?、という話で、改革はいいかもしれないが、なぜぞれを絶叫する必要があるのか?、新自由主義が正しいというのならば、何故それを論じずに、努力が足らないとか怠けているからとか、そういう感情論でしか新自由主義を語らないのか?、それが疑問だったのですが。
今考えてみると、結局のところ独裁のために全部うそをついていた、そういう話なんじゃないかと思うんですよ、新自由主義も改革というものとも全然関係ないことをしていたんじゃないか、そう思えるんです。
最初のほうで書いた、集団的自我を生むために、言論の封殺し、そして合理的判断の規制のために、改革と新自由主義という嘘を持ち出したのではないか、そんな気がするんです。
だから昔も書いたのだけど、何で改革と新自由主義と軍事独裁が一緒に行われているのか?、変ですよね、
それはつまり、集団的自我を発芽させようとするために、どんな手が使えるかと考えて、適当に選んだんじゃないか、そんな気がするんです。
つまり感情的に煽りやすい手で、利権や権力増強になりそうなものを意味もなく選んで、でたらめに政治をしていただけなんじゃないかって、どうもそんな気がするんです。
まあ、なにかまとまりのない話ですが、集団的自我と言うもの、昔も書いたような気もするのですが、集団というものは感情論、情緒論で統一してしまえば、実質言論の封殺と、合理的判断に対する規制を行えるということ、
であるから情緒論や感情論を、集団において肯定してしまえば、それは奴属的に集団に属するということになり、独裁を肯定することにもなる、
日本は情緒的に生きてきたといわれるが、それを良しとしても、それは恒常的に独裁を認めるという意味も持つ。 情念による世界構築は、力の分散ができないので、ある程度力が強くなってきたら、部分的に捨てる必要があるのだろう、
例えば権力者に対しては、情念的な世界論を認めないとか、まあそういうことをして、集団における自我のようなものが発芽しないようにして、社会の安定化を図るべきではないかと思います。
さて、それでは次に、変化という思考法、ということでも書いてみようかと、上の話の続きのような続きでないような話なのですけど、上の話では集団における感情論が、結果として言論の封殺や、合理的判断を不可能にする意味を持つ、ということを書いたのですが、
では集団における感情論が成立しないのならば、集団というものをどう考えていけばいいのか、まあそんなことを考えたので書いてみると、
それで変化という思考法ということで、この言葉を思いついたのは、西洋では議論というものを重視して、言い合いのようなもの、人の意見を聞くということを重要視しますが、それは何でなんだろうと考えていたときに、社会変化というものがよくあったので、そうなったんじゃないかなと思ったのです、
今の日本もそうですけど、あまりに社会変化が起きてしまうと、実質意見の統一は無理ですよね、考え方があまりに違いすぎてしまうから、みんな同じように考えるということはできるようでできない。
そういう意味で言えば、ヨーロッパとかはかなり昔から、社会変化があって人と人の意見が合わない、ということがよくあったと思うのです、
もしくは交易等で地続きですから、色々な人が来て話し合ったときに、だいたい意見は合わないですよね、違うところから来たわけだから、
だからヨーロッパでは意見が合わないのが普通で、その合わないというところの加減で付き合いをしていたのではないかな、と思うのです。
向こうで言う言論の自由というのは、違う意見が常にあるという、そういう社会を反映した考え方であり、違う意見を尊重するという意味があると思うのですね、
そして、違う意見を認めるという意識が、変化というものに対する対応力を生み、それが西洋の成功の要因になったのではないかと、
変化というものは違うという意味ですから、変化というものを含んだ思考法は、違うというものを認めた考え方でないといけない、
これからの日本、そして今の日本もこの違うという事と、これからかなり付き合うことになるんではないか、
だから、変化という思考法、昔も書いたような気がするのですが、空間や時間によって物事が分離しているということ、それを含めた上で物事を考えてみる、
そこで必要になるのは、意見のよしあしはあるけど、意見自体は何であれ認めるということ、
個人的なことならば別に認めなくてもいいだろうけど、社会的なものに対しては、やはり西洋のように、議論をして意見をできる限り表すしかないのではないかな、
日本人は情緒で、なあなあでやるけど、ちょっとそれでは無理なところに今いるのではないかなと思ったので、書いたみたのですが、
それではそろそろ戻してもいいのですが、まあしばらくはこのままで、国会でも始まったら戻そうかと思っているのですけど、いつになるのかな??、とにかく政府が引き伸ばしをしている以上、こっちものんびりやるしかないので、、次回も週一回で、来週の水曜日になります、では次回まで。
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